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    かけはし2021年3月22日号

天皇制を終らせるために


菅孝行氏の天皇論を批判する

「代替わり」に取り組む姿勢とは?

「民主主義に天皇制はいらない!」の原則こそ

 

 「平成の代替わり」と打ち出された天皇明仁の生前退位劇は、反天皇制運動にも「様がわり」をもたらした。本紙昨年10月19日号に掲載した「反天皇制運動連絡会」の天野恵一さんとのインタビューは、御厨(みくりや)貴(「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」議長代理)編著の『天皇退位 何が論じられたか おことばから大嘗祭まで』(中公選書)を題材の一つにしたものだった。御厨は東大客員教授で「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」座長代理もつとめた政治学者である。
 その本紙インタビューの中で天野は、「昭和代替わり」と明仁の「生前退位」との大きな違いについて、「『今や象徴天皇制は民主主義と両立する』ということで、たとえば共産党は天皇制にOKを出し、リベラル民主主義も天皇制を認める。菅孝行さんなんかも『明仁になって象徴天皇制が変わった』としてその流れの中にいる」と指摘した。
 私自身は、天皇制についてこの間の菅孝行氏の主張に接していなかったのだが、最近出版された『これからの天皇制 令和からその先へ』(春秋社刊)に収録された、菅氏の反天皇制運動への批判を読み、無視するのではなく改めて「反論」すべきことは反論しなければならない、と思ってこの小文を書いている。
 
ある連続講座
での講演から


 その前にこの春秋社刊の本についてであるが、実は「日蓮仏教の『再歴史化』(時代相応の蘇生)」を「学是」とする「法華コモンズ仏教学林」の2019年度特別講座(全6回、2019年10月から2020年5月まで)の内容をもとにした単行本だという。
 同「法華コモンズ仏教学林理事長」の西山茂は本書「はじめに」の中で「象徴天皇制は、種々の問題があるにせよ、共同社会の衰退にともなう『契約社会化』……の結果としての、日本の共同社会の希少な『残地』である」という立場から「『これからの天皇制』に興味をもつ多くの一般読者によまれるようになることを期待したい」と述べている。
 本書の内容は6回の講座の収録からなっている。第1講は「『平成流』とは何だったのか」(原武史 放送大学教授)、第2講は「天皇制の『これから』 その呪縛からの自由へ」(菅孝行 評論家)、第3講は「出雲神話論 神話化する現代」(磯前順一 国際日本文化研究センター教授)、第4講は「国家神道と神聖天皇崇敬」(島薗進 上智大教授)、第5講は「天皇制から読み取る日本人の精神のかたち」(大澤真幸 京大教授)、第6講は「『象徴天皇』と『人間天皇』の矛盾 戦後天皇制をめぐって」(片山杜秀 慶応大教授)と、テーマを含めて私たちにとって興味深い部分もある。
 しかし、冒頭に書いたように、やはり私たち自身が、反天皇制運動連絡会(反天連)の人たちや党派・無党派の活動家とともに関わってきた「おわてんネット おわりにしよう天皇制ネットワーク」の運動との関連で言えば、とりわけかつての「昭和代替わり」の局面で反天皇制運動の代表的な知識人だった菅孝行さんの主張には実際のところ驚かざるをえなかったのである。

幻想の共同性
と天皇制批判


菅孝行さんはこの本(講座での講演)の中で次のように述べている。
「問題は天皇個人ではなく制度、制度の運用を握る政府、政府を選んだ主権者、天皇は所詮国政の権能を有しない、といった発言に対して左翼の正統を任じる反天皇制運動家たちはナーバスです。いわく、一知半解、個人としての天皇が『良心的』などということはありえない、個人としての発言もすべて欺瞞だ、政府と明仁の相剋は全て出来レースだ云々」「ここには、天皇はワルだ、と言ってないと天皇制は倒せない、言っていればいつか道が開ける、という錯覚があるのではないでしょうか。個人と構造の区別がまるでついていない。また、日本会議派が、宮内庁に天皇を黙らせろといい、宮内庁が内閣府を無視して『おことば』の段取りをし、それに対する報復としてトップ二人の首を飛ばして、腹心を後釜に据える、などということを、出来レースでやって見せるほど、天皇も政府も暇ではないでしょう。そこには支配階級内部の相剋を見るべきです」。


菅さんは続ける。
「私の議論の筋目は、仮にどれほど良心的な天皇がいても、その意志は制度に必ず阻まれるから期待するな、というところにあります。悪は制度、制度に囚われる主権者の集合的な観念、大切なのはそのことだけです。ところが、良心的な天皇が個人として存在するという言説自体に彼らは耐えられない。制度だけでなく天皇個人も邪悪だと言い募っていないではいられない強迫観念を感じます。この強迫観念は『左翼小児病』の一種だと私は思います」。


さらに続ける。
「折に触れてなされた明仁の発言は、憲法に抵触しないよう当たり障りなく韜晦(とうかい)されたものでしたが、彼の歴史認識や政治倫理は、与野党の国会議員や自治体首長の九割がたより優位にあると言わざるを得ないと思います。……天皇制批判者は、天皇個人に邪悪さや欺瞞を見出すことに熱中する前に、主権者とその代表と、代表が作る政府の無残さにこそ思いを致すべきではないでしょうか」。
「天皇制との闘いとは、主権者の幻想の共同性との闘いです。だから天皇制と闘うには、天皇や政府や資本に幻想を抱き、嫌中・嫌韓・嫌朝で盛り上がり、外国人労働者を排除したがる主権者内部の荒廃を糺すことから始めるしかありません。全ては主権者の排外主義と国家への幻想の〈とらわれ〉の始末に懸かっています。〈とらわれ〉の始末には、権力や資本の垂直的な規定力を超える隣人相互の信認の形成が不可欠です」。


菅さんの結論は次のような形になる。
「日本国家における天皇制との闘争とは、日本資本主義とその総括形態としての国家に対する闘いなのだと最初に言いました。だとしたら、保育だの、学校だの、医療だの、生活相談だの、不登校支援だの、このような一見天皇などと全く関係がないかのような場での闘いこそが、それが日本資本制の矛盾の産物なのですから、それらに対する闘いの発展の先に天皇制を始末する闘争の展望を開くことができると考えるべきではないでしょうか」。「重要なのは、人びとの意識が国家や資本への崇敬・畏怖から切断されることです。天皇制の統治は、天皇の超越性に呪縛される大衆の存在が前提なのだから、大衆が天皇に関心を抱かなくなってしまえば制度は機能しなくなります。幻想の共同性とはそういうものです」。
なるほど、かつて「昭和の代替わり」において大きく広がった反天皇制運動の中心的イデオローグだった菅孝行さんは、このような形で、現在の「反天皇制運動」の無効性をハッキリと主張するに至った。

終わりにする
ための挑戦へ


しかし私たちは、天皇制批判それ自身の「不在」と反対運動の「放棄」をこそ恐れる。「大衆が天皇に関心を抱かなくなってしまえば制度は機能しなくなる」というそれこそ超楽観的な展望こそ、幻想ではないのか。
「おわてんネット」の運動は「昭和代替わり」時と比べて小規模だったことは間違いないとしても、「天皇制批判」の論理と意思を新しい社会的運動と結び付けようとしたことを含めて、確かに今後につながる可能性をもたらした、と思う。それはまた今回の運動に関わった一人一人の中に、これからの課題として意識されていることなのだ、と私たちは考えたい。
菅孝行さんへの批判が、反天皇制運動のこれからのチャレンジの中で実践されるよう肝に銘じたい。「おわてんネット」が作成した『終わりにしよう天皇制』をそのために活用すべきだろう。    (平井純一)


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